しばらく台湾の神社遺跡を紹介してきました。
台湾の神社遺跡は、私と台湾神社との出会いである「金瓜石神社」や、見事な神社施設の残る「嘉義神社」、現在圓山大飯店となっている「台湾神宮」などまだまだご紹介してない場所も多いのですが、ここで一旦区切りにして、最後は複雑な日台関係を考えるのに適した「宜蘭神社」遺跡をご紹介します。
最初に、衝撃的な写真をお見せしましょう。
まるで中華民国軍のM24チャーフィー軽戦車が鳥居や狛犬、神馬の残骸を蹂躙しているような景色。
我々日本人からすると、神道への思い入れが無くともドキっとするような、目をそらしたくなるような光景が広がっています。
ここは宜蘭県の員山公園、宜蘭忠烈祠。
かつてこの地で能久親王・大国魂命・大己貴命・少彦名命・天照皇大神の5神を祀っていた宜蘭神社が前身です。
宜蘭市内に1906年に鎮座していた宜蘭神社が1919年にここ圓山に遷移され、1927年に県社に昇格。戦後は70年代の破壊命令を待たずしてすぐに社殿が取り壊され宜蘭県忠烈祠になったとのこと。
参道から見上げる石段は本当に素晴らしく、今でも残る神橋と赤い鳥居も相まって、ここが立派な神社であったことがはっきり偲ばれます。
しかし石段に近づくにつれ、その予想外の光景に唖然とします。
冒頭の写真のように、神社を象徴する狛犬、神馬、石柱などが分断された上で土に埋められ、それを民国軍の戦車が乗り越えていくような「展示」。これは他の神社跡では見たことがありません。
(ただし、鳥居は金属製のアート、神馬・狛犬も複製品のようです。)
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私は戸惑いつつも、「台湾は親日だ」と声高に主張する人々にこの光景を見せたいと思いました。
今、台湾における神社の復興・保存運動を、「親日」という一枚岩で評価する日本人がいます。
しかし、それは違うのです。あくまで、台湾は台湾としての歴史を歩むため、歴史を「発掘」し、「保存」しているだけだと考えるべきでしょう。この視点は、あくまで直系的な慣習・文化を持ち、歴史を軽視しがちな日本人には少し難しいかもしれません。
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石段の手前には、復光記念碑と神馬と狛犬。記念碑はおそらく日本時代のものを流用しており、台座には神社を含む日本時代宜蘭の写真が飾られ、当時と現在を比較することが可能です。神馬は複製品で、本物の神馬は別の場所に保管されています。
長い石段の途中には鳥居。ぱっと見た感じ「中山鳥居」というタイプに見えますが、とにかく青のセンスが悪い。「青天白日満地紅」の青と赤なんでしょうけど。はっきり言ってセンスが悪いと台湾人の同行者も言っていました。
この青色が無かったら、周囲の緑に溶け込んで見事なんだろうけどなぁと思った次第。
石段を登りきると、かつて拝殿のあった場所。柱や井戸のような跡があるだけで何もありません。さらに奥には本殿、現在は忠烈廟があります。
忠烈廟は神社の面影が全くありませんが、床に透明なパネルがあり、本殿の「礎石」が見えるようになっていました。
左右には資料室が増築されており、「神社」の解説から日本人による宜蘭統治と宜蘭神社の歴史がしっかりとわかるようになっていました。神社を破壊するようなアートがある一方で、日本統治の事実と神社の価値を伝える側面もある。この二面性が台湾らしさではないかと個人的には思います。
ふと後ろを振り返ると、そこには宜蘭の絶景が広がっていました。かつてここを訪れた日本人も同じ場所から同じように景色を眺めたのかなと思うと、感慨深いものがありました。
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現在は公園として市民の憩いの場となっている、かつての参道と林園部分。ここに神社時代の物が何か残っていないかと探しましたが一切見付かりません。それもそのはず、戦後参道エリアは眷村(大陸人の村)となり外省人が徹底的に破壊してしまったそう。
現在は公園として綺麗に整備され、擬宝珠をつけた「神橋」が唯一日本時代を蘇らせます。広場を囲むように立っている石柱はおそらく灯篭を代用したものだと思われますが、それに気づく利用者はおそらくほとんどいないことでしょう。
員山公園へは台鉄宜蘭駅から752線に乗り員山鄉公所で下車すぐ。本数が少ないのでご注意を。